近年の韓国時代劇の中でも、運鏡、叙事、そして物語の緩急に至るまで、極めて「高級」な作品だと感じさせる『恋人~あの日聞いた花の咲く音~』。 特に第3話と第4話で描かれた「節」を巡る問いかけは、視聴者の心に深く突き刺さるものであった。
物語の舞台は、後金(後の清)が朝鮮に侵攻した「丙子の乱」の最中である。 後金の軍勢が首都・漢城に迫る中、朝廷は降伏か、徹底抗戦かで真っ二つに割れる。
斥和派(主戦派)が持ち出すのは、かつて中国大陸で起こった北宋の「靖康の変」である。この事件では、降伏を選んだ結果、皇帝をはじめとする皇族が北へ連れ去られ、国が滅びるという悲惨な結末を迎えた。彼らはその轍を踏むまいと、仁祖(インジョ)王に南漢山城での徹底抗戦を訴える。
一方、主和派が例に出すのは、わずか5年前に明の将軍・祖大寿が経験した「大凌河城の戦い」である。籠城の末、城内では人々が互いを食らう地獄絵図が繰り広げられ、結果的に降伏したという、生々しい失敗談だ。彼らは、無益な犠牲を避けるため、一刻も早く和議を結ぶべきだと主張した。
二つの歴史的な悲劇を前に、王である仁祖(インジョ)はただ狼狽し、決断を下せない。 しかし、主人公イ・ジャンヒョンが「国君が民を見捨てて逃げたのに、なぜ民が国君を救わなければならないのか」と問い詰めるように、その結末は多くの視聴者が予期した通りだった。 王はきっと、降伏を選ぶだろうと。
ジャンヒョンの言葉は、決して空論ではない。なぜなら、朝鮮の王にとって、民を捨てて逃げるのは、ある種の「伝統」だったからだ。
物語の時代から44年前、日本の太閤・豊臣秀吉が朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」(朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ばれる)の際、当時の国王・宣祖(仁祖(インジョ)の祖父)は、驚くべき速さで都を捨てた。 小西行長や加藤清正が率いる日本軍が釜山に上陸するや否や、宣祖は漢城(ソウル)を捨てて開城へ、日本軍が開城に迫れば平壌へ、そして平壌が危うくなると、ついには明との国境の街・義州まで逃げ延びたのである。
当時の逸話は、もはや喜劇に近い。漢城の守備を任された将軍たちは、逃げ帰ってきた兵士たちの恐怖譚と、対岸からの日本軍の鉄砲の音に怯え、「王をお護りする」という名目で戦わずして逃亡。小西行長が無人の漢城に入城した際、あまりの静けさに罠を疑ったという話まで残っている。
宣祖はさらに、明に泣きつき、援軍を要請する一方で、いっそのこと明に亡命し、彼の地で安楽な王族として暮らそうとさえ考えていた。自国を「子」、宗主国である明を「親」と見なし、子が殴られたのだから親の家で面倒を見てもらうのは当然だ、という論理である。
祖父がそうであったように、孫の仁祖(インジョ)もまた、民を見捨てて逃げた。 違うのは、敵が北から来た後金であったため、祖父とは逆に南へ逃げたことだけだ。江華島を目指すも、道は塞がれ、やむなく南漢山城に籠城する羽目になった。
このような「失節」の王に、民に忠誠を求める資格があるだろうか。
だからこそ、ジャンヒョンの目には、臆病な王よりも、陵君里(ヌングンリ)の一人の老人の方がはるかに尊く映る。
その老翁は、蛮族(後金兵)を前に臆することなく剣を抜き、国への「節」を示した。村人たちが逃げる時間を稼ぎ、民への「義」を貫いた。そして、愛する妻を見捨てることなく、夫としての「情」を全うした。
国、民、そして妻への「節・義・情」を体現したこの名もなき老人こそ、ジャンヒョンが力を尽くして守るに値する存在だった。このドラマは単なる恋愛時代劇ではない。国家の危機に際して、人の「節」とは何か、真の忠誠は誰に捧げられるべきかを、深く問いかける重厚な物語なのである。
近年の韓国時代劇の中でも、運鏡、叙事、そして物語の緩急に至るまで、極めて「高級」な作品だと感じさせる『恋人~あの日聞いた花の咲く音~』。 特に第3話と第4話で描かれた「節」を巡る問いかけは、視聴者の心に深く突き刺さるものであった。
国の操守「国節」と、王の選択
物語の舞台は、後金(後の清)が朝鮮に侵攻した「丙子の乱」の最中である。 後金の軍勢が首都・漢城に迫る中、朝廷は降伏か、徹底抗戦かで真っ二つに割れる。
斥和派(主戦派)が持ち出すのは、かつて中国大陸で起こった北宋の「靖康の変」である。この事件では、降伏を選んだ結果、皇帝をはじめとする皇族が北へ連れ去られ、国が滅びるという悲惨な結末を迎えた。彼らはその轍を踏むまいと、仁祖(インジョ)王に南漢山城での徹底抗戦を訴える。
一方、主和派が例に出すのは、わずか5年前に明の将軍・祖大寿が経験した「大凌河城の戦い」である。籠城の末、城内では人々が互いを食らう地獄絵図が繰り広げられ、結果的に降伏したという、生々しい失敗談だ。彼らは、無益な犠牲を避けるため、一刻も早く和議を結ぶべきだと主張した。
二つの歴史的な悲劇を前に、王である仁祖(インジョ)はただ狼狽し、決断を下せない。 しかし、主人公イ・ジャンヒョンが「国君が民を見捨てて逃げたのに、なぜ民が国君を救わなければならないのか」と問い詰めるように、その結末は多くの視聴者が予期した通りだった。 王はきっと、降伏を選ぶだろうと。
日本の視聴者にはお馴染み?王の「伝統芸」
ジャンヒョンの言葉は、決して空論ではない。なぜなら、朝鮮の王にとって、民を捨てて逃げるのは、ある種の「伝統」だったからだ。
物語の時代から44年前、日本の太閤・豊臣秀吉が朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」(朝鮮では「壬辰倭乱」と呼ばれる)の際、当時の国王・宣祖(仁祖(インジョ)の祖父)は、驚くべき速さで都を捨てた。 小西行長や加藤清正が率いる日本軍が釜山に上陸するや否や、宣祖は漢城(ソウル)を捨てて開城へ、日本軍が開城に迫れば平壌へ、そして平壌が危うくなると、ついには明との国境の街・義州まで逃げ延びたのである。
当時の逸話は、もはや喜劇に近い。漢城の守備を任された将軍たちは、逃げ帰ってきた兵士たちの恐怖譚と、対岸からの日本軍の鉄砲の音に怯え、「王をお護りする」という名目で戦わずして逃亡。小西行長が無人の漢城に入城した際、あまりの静けさに罠を疑ったという話まで残っている。
宣祖はさらに、明に泣きつき、援軍を要請する一方で、いっそのこと明に亡命し、彼の地で安楽な王族として暮らそうとさえ考えていた。自国を「子」、宗主国である明を「親」と見なし、子が殴られたのだから親の家で面倒を見てもらうのは当然だ、という論理である。
祖父がそうであったように、孫の仁祖(インジョ)もまた、民を見捨てて逃げた。 違うのは、敵が北から来た後金であったため、祖父とは逆に南へ逃げたことだけだ。江華島を目指すも、道は塞がれ、やむなく南漢山城に籠城する羽目になった。
このような「失節」の王に、民に忠誠を求める資格があるだろうか。
真の「節」を持つ者
だからこそ、ジャンヒョンの目には、臆病な王よりも、陵君里(ヌングンリ)の一人の老人の方がはるかに尊く映る。
その老翁は、蛮族(後金兵)を前に臆することなく剣を抜き、国への「節」を示した。村人たちが逃げる時間を稼ぎ、民への「義」を貫いた。そして、愛する妻を見捨てることなく、夫としての「情」を全うした。
国、民、そして妻への「節・義・情」を体現したこの名もなき老人こそ、ジャンヒョンが力を尽くして守るに値する存在だった。このドラマは単なる恋愛時代劇ではない。国家の危機に際して、人の「節」とは何か、真の忠誠は誰に捧げられるべきかを、深く問いかける重厚な物語なのである。